皆さん、こんにちは。
創心館の藤井です。
今回は、2025年度・京都大学の日本史探究の問題解説を、特別速報版でお届けします。
今回は〔Ⅰ〕と〔Ⅱ〕の解説を行います。
では、さっそく解説に入ります!


ⅠーA 保元の乱前夜に関する史料問題
まず、Aの史料がいつ、何に関するものであるかを見抜かなければいけません。
出典のところに、「『兵範記』(保元元年(1156年)7月条)」とあります。そうすると、この史料は、1156年の保元の乱に関する史料であると分かります。
問(1)
正解は、「南」です。
鳥羽という地名は、京都市内からみて南部にあります。京都大学らしい、ご当地問題ですね。歴史的には鳥羽上皇の院政や、1868年の戊辰戦争の最初の戦いである鳥羽・伏見の戦いの舞台としても有名です。
問(2)
正解は、堀河(天皇)です。
史料の1行目に「法皇、鳥羽安楽寿院御所において崩御す」とあります。したがって、「法皇」とは鳥羽法皇をさします。そして、設問文に「( ア )は史料中の「法皇」の父である」と書いてますね。
ここで白河天皇からの院政の動きについて確認すると、「白河天皇が堀河天皇に譲位し、白河上皇として院政を開始した」のですから、白河天皇→堀河天皇の順となります。そして、鳥羽天皇が鳥羽上皇として院政を始めますので、「白河→堀河→鳥羽」の順で動いていきます。したがって、正解は堀河となります。
問(3)
正解は、崇徳上皇です。
史料中の(d)「上皇」に着目すると、「十日己酉、上皇、白河殿において軍兵を整えられる」とあり、次の行には「前馬助平忠正、…軍兵を発す」という大きなヒントがあります。
ここで保元の乱の対立関係を確認しておきましょう。この知識がないと正解できません。
保元の乱の対立関係を確認しておこう!
★保元の乱(1159年)…院・上皇の対立/摂関家の内紛
後白河天皇(弟) 藤原忠通(兄・関白) 平清盛(甥) 源義朝(子・兄)
↕ ↕ ↕ ↕
崇徳上皇(兄) 藤原頼長(弟・左大臣) 平忠正(叔父) 源為義(父)・為朝(子・弟)
→鳥羽法皇の死を契機に戦乱に突入・上皇方が敗北
崇徳上皇→讃岐へ配流
藤原頼長→戦死(藤原頼長の日記を『台記』)
平忠正・源為義→斬首(藤原薬子の変〔810年〕以来の死刑が復活)
源為朝→伊豆大島に配流
※慈円(天台座主)は、保元の乱以降「武者の世」となったと記す(『愚管抄』)
そうすると、平忠正は崇徳上皇に味方していることが分かりますので、正解は崇徳上皇となります。
問(4)
正解は、院政です。
下線部(c)の直前に「白河院」があり、史料文1行目でふれた鳥羽法皇の死去などの記述から、院政と判断しましょう。
問(5)
正解は、藤原頼長です。
先ほどの保元の乱の対立関係からも明らかなように、保元の乱は摂関家(藤原氏)の対立も絡んだ戦いでした。関白であった藤原忠通とは兄弟の関係にありながら、崇徳上皇に味方して宇治から参戦してきたことも書かれています。
問(6)
正解は、平清盛です。
最初の空欄( イ )の前の行に「下野守義朝」とあるのが大きなヒントになりますね。これは源義朝をさし、保元の乱では後白河天皇に味方して戦いました。また、「安芸守」=「広島」=「厳島神社の平家納経」と見抜くこともできます。
問(7)
正解は、高松殿です。
史料中に、「禁中、時に高松殿、彼の僉議により、同じく武士を集めらる」とあります。意味をとってみると「御所(=後白河天皇)が高松殿にて、白河院での議定(崇徳上皇や藤原頼長の議定)により、同じように武士を集められた」となります。よって、保元の乱で勝利した権力者である後白河天皇がいたのは、「高松殿」ということになります。
ⅠーB 江戸時代のロシアからの圧力に関する史料問題


さて、Bの史料には出典が書かれていません。
ということは、設問をたよりにしながら内容を把握することになります。
問(8)
正解は、平戸です。
イギリスは、1600年に豊後(大分県)に漂着したリーフデ号に乗船していた、ウィリアム=アダムズ(三浦按針)が徳川家康の顧問となったのを契機に、長崎の平戸に来航し、1613年に商館を建設しました。しかし、オランダとの競争に敗れ、1623年には商館を閉鎖しています。
問(9)
正解は、朱印船です。
設問文に「将軍が外国への渡航許可証を与えた船」とありますので、これは落とせない問題ですね。
問(10)
正解は、朝鮮です。
空欄の前後をみると、「唐山・( ウ )・琉球・紅毛の往来することは、互市の利(=貿易の利益)を必とするにあらず」とあります。つまり、「中国・( ウ )・琉球・イギリス人やフランス人が往来することは、貿易の利益が目的ではない」ということです。したがって、江戸幕府と関係をもっていた国として朝鮮があてはまります。
問(11)
正解は、海舶互市新例(長崎新令・正徳新令)です。
設問文に「新井白石は…長崎貿易の額を制限した」とありますので、答えやすかったと思います。
問(12)
正解は、ロシアです。
ただ、いきなりロシアを導くのは困難ですので、その次の問題が大きな手掛かりになります。
問(13)
正解は、大黒屋光太夫です。
下線部(j)の次に「松前に来りて通商を乞う」とあります。漂流民を松前に届け、通商を要求していることが分かります。ということで、漂流民は「大黒屋光太夫」で、彼を連れてきたのはロシアの使節であるラクスマンであることがわかります。
ここで、幕末における江戸幕府とロシアの関係についてまとめておきましょう。
幕末における江戸幕府とロシアの関係を押さえよう!
①厚岸に来航(1778年)…工藤平助『赤蝦夷風説考』→最上徳内を派遣(1785年)
②ラクスマンの根室来航(1792年)…大黒屋幸太夫送還(エカチェリーナ2世に謁見)←桂川甫周『北槎聞略』
→信牌(長崎入港許可証明書)受領
③近藤重蔵・最上徳内ら択捉島探査(1798年)…「大日本恵土呂府」
➃東蝦夷地の直轄(1799年)…箱館奉行設置
⑤レザノフの長崎来航(1804年・信牌持参)…津太夫送還←大槻玄沢『環海異聞』
→ロシア船の樺太・択捉島攻撃(1806~1807年)
⑥西蝦夷地を含め、すべて直轄(1807年)…松前奉行設置
⑦間宮林蔵の樺太探査(1808年)…間宮海峡の発見(松田伝十郎)・黒竜江下流も探査
⑧ゴローウニン事件(1811~1813年)…高田屋嘉兵衛の努力で解決・関係改善←ゴローウニン『日本幽囚記』
⑨松前藩に蝦夷地還付(1821年)
問(14)
正解は、オランダです。
1844年に、オランダ国王が開国勧告をしていますが、幕府はこれを拒否しているという史実は少し細かいですね。いきなりペリーが来航したわけではなく、ペリー来航以前の関係をしっかり押さえておく必要があります。
ペリー来航以前の様子をしっかり押さえよう!
(1)オランダ国王の開国勧告(1844年)→幕府は拒否
(2)アメリカの接近…清との貿易・捕鯨業での石炭補給地を確保
①ビッドルの来航(1846年・浦賀)→幕府は拒絶
②カリフォルニアで金鉱発見(1848年)
③ペリー来航(1853年・浦賀・12代将軍徳川家慶)…黒船4隻・大統領フィルモアの国書提出
→再来(1854年・神奈川・13代将軍徳川家定)…黒船7隻
ⅠーC 斎藤隆夫の演説に関する史料問題


Cの史料は出典にもあるように、斎藤隆夫『回顧七十年』という著書から引用したものです。
史料文は比較的読みやすいので、基本を押さえられていれば、問題を解く際に悩むことはないと思います。
問(15)
正解は、裕仁親王(摂政宮裕仁親王)です。
のちの昭和天皇であり、病弱の大正天皇に代わって政務をとったことからも「摂政宮」とつく場合もあります。
虎ノ門事件とは、1923年、無政府主義者の難波大助による摂政宮裕仁親王暗殺未遂事件で、この責任をとって第2次山本権兵衛内閣が退陣しました。
問(16)
正解は、政友本党です。
史料文の2行目に「清浦内閣が成立」「貴族院内閣」とあるように、枢密院議長であった清浦奎吾は、貴族院・官僚による超然内閣(政党の意見を無視して政治を行う内閣)を組閣しました。これを受けて「憲政擁護運動」(護憲運動)が起こるわけですが、床次竹二郎率いる政友本党は、内閣を支持する立場にまわりました。
ここで、受験生が間違いやすい第一次護憲運動と第二次護憲運動の違いについて、以下にまとめておきましょう。
第一次護憲運動と第二次護憲運動との違いを明確に!
(1)第一次護憲運動(1912~1913年)
第3次桂太郎内閣 VS 尾崎行雄(立憲政友会)・犬養毅(立憲国民党)
「憲政擁護」「閥族打破」をめざして桂内閣打倒をはかる
→桂太郎は立憲同志会を結成して対抗するが、53日で退陣(大正政変)
(2)第二次護憲運動(1924年)
清浦奎吾内閣 VS 加藤高明(憲政会)・高橋是清(立憲政友会)・犬養毅(革新倶楽部)の護憲三派
「普選断行」「貴族院改革」「行政整理」をめざして清浦内閣打倒をはかる
→総選挙で護憲三派が圧勝し、清浦内閣退陣
※床次竹二郎率いる政友本党は、清浦内閣を支持した
問(17)
正解は、5%です。
ここは慎重に史料文を読む必要があります。
時系列でまとめると、
○大正十二年二月二十七日…虎の門事件の責任をとって第2次山本権兵衛内閣が退陣
○大正十三年一月七日…清浦奎吾内閣が成立
○大正十三年一月三十一日…衆議院解散
○大正十三年五月十日…衆議院議員選挙
となります。清浦奎吾内閣が衆議院を解散し、その後衆議院議員選挙となるわけですが、この時点での選挙権はどうたったでしょうか。ちょっと確認してみましょう。
選挙資格の変遷を押さえよう!
★戦前には女性に参政権がなかったことや、「税額」の変化に注意しながら「内閣」と一緒に覚えよう!
○1889年公布(黒田清隆内閣) …直接国税15円以上・25歳以上の男子・全人口比1.1%
○1900年公布(山県有朋内閣) …直接国税10円以上・25歳以上の男子・全人口比2.2%
○1919年公布(原敬内閣) …直接国税3円以上・25歳以上の男子・全人口比5.5%
○1925年公布(加藤高明内閣) …直接国税なし・25歳以上の男子・全人口比20.8%
○1945年公布(幣原喜重郎内閣)…直接国税なし・20歳以上の男女・全人口比50.4%
○2015年公布(安倍晋三内閣) …直接国税なし・18歳以上の男女・全人口比83.8%
そうすると、清浦奎吾が衆議院を解散した時点での選挙権は、「直接国税3円以上・25歳以上の男子・全人口比5.5%」の原敬内閣の時の選挙権が適用されることになります。よって、正解は5%となるわけです。
普通選挙法が公布された1925年以前の内容ですので、慎重に史料を読まなければいけません。
問(18)
正解は、尾崎行雄です。
第1次大隈重信内閣の時、当時文部大臣であった尾崎行雄が、「日本が大統領制になれば、その候補は三井か三菱になるであろう」と、天皇制を否定する演説を行い、結果として辞任に追い込まれました。これを共和演説事件といいます。
問(19)
正解は、南です。
広田弘毅内閣の時に帝国国防方針が改定され、「国策の基準」が決定されました。
当面の日本の国策を、「東アジア大陸での日本の基盤を固めること」「南方の海洋に進出すること」の2本柱とすることが内容として書かれています。これは中身まで知っていないと難しい問題ですね。
問(20)
正解は、五・一五(事件)です。
史料文中に「議席の犬養健君」「憲政擁護に生涯を終始した父君の面影」とありますので、犬養毅が暗殺された五・一五事件とわかります。ヒントがわかりやすいので、ここは落としたくないですね。
Ⅱ 基本的な空欄補充問題


ア
正解は、帯方(郡)です。
空欄の前に「楽浪郡を割いて」とあります。公孫氏が現在のソウル付近に設置した役所です。
イ
正解は、親魏倭王です。
卑弥呼が大夫である難升米を魏に派遣し、返礼としての称号が「親魏倭王」でした。現在、卑弥呼の墓と推定されているのが、奈良県の纏向遺跡にある箸墓古墳です。
ウ
正解は、装飾(古墳)です。
空欄の前に「石室の壁面などに彩色面などをほどこす」とありますので、装飾古墳が正解です。福岡県の竹原古墳が有名です。
エ
正解は、曇徴です。
「高句麗僧」「絵の具・紙・墨の製法」とありますので、曇徴ですね。暦法を伝えた百済の僧の観勒と区別しておきましょう。
オ
正解は、紀伝道
です。
空欄の前に「中国の歴史や文学を学ぶ」とあるのがヒントですね。
カ
正解は、勧学院です。
空欄の前に「一族子弟の教育を支えるために学生の寄宿舎を設けた」とありますが、これを大学別曹といいます。藤原氏の大学別曹ですので、勧学院が正解ですね。
ではここで、平安時代初期の教育についてまとめておきましょう。
平安時代初期の教育は「大学」が重要!
大学の隆盛…明経道(儒学を学ぶ)・紀伝道(文章道・中国の歴史や文学を学ぶ)重視
※文章博士として菅原氏や大江氏を登用
→大学別曹…大学付属の寄宿舎兼図書館・一族子弟の教育施設
弘文院(和気氏/和気広世が創設)・勧学院(藤原氏/藤原冬嗣が創設)
学館院(橘氏/橘嘉智子・氏公が創設)・奨学院(在原氏/在原行平が創設)
※綜芸種智院(空海)は庶民教育機関
キ
正解は、源信です。
空欄の後に『往生要集』とありますので、容易な問題です。
ク
正解は、寄木造です。
「複数の部材を接合して仏像を完成させる」とありますので、これも容易に答えられたと思います。寄木造の技法を完成させたのが定朝であることも、しっかり押さえておきましょう。
ケ
正解は、本地垂迹(説)です。
この世の神々は、あの世の仏の化身(権現=仮に姿を変えて現れたもの)とする考え方で、神宮寺(寺の中に神社がある)や神前読経など、神仏習合の基本となる考え方でした。
コ
正解は、度会家行です。
鎌倉時代の後期に、伊勢神宮外宮の神官であった度会家行は、本地垂迹説とは逆の「反本地垂迹説(神本仏迹説)」を唱え、この世の仏は、あの世の神の化身であるという考え方を広めました。
サ
正解は、麦です。
空欄の後に「裏作とする二毛作」とありますので、米を表作、麦を裏作としたのが二毛作であることが分かれば、容易な問題です。
シ
正解は、紙(和紙)です。
鎌倉時代には、商品作物の栽培が行われましたが、楮は紙の原料として取引されました。その他にも染料の原料の藍、灯油の原料である荏胡麻などがあり、商品作物の栽培を通して、鍛冶・鋳物師・紺屋・番匠(大工)などの手工業者も発生しました。
ス
正解は、由井正雪です。
兵学者であった由井正雪は、1651年に幕府転覆事件である慶安の変を起こし、幕府が武断政治から文治政治にかわるきっかけとなりました。
セ
正解は、牢人です。
「大名改易によって生じていた」というのが、牢人発生の原因でした。武家諸法度に違反した大名は、程度によって改易(石高没収)・減封(領地削減)・転封(領地替え)などの処分が下されましたが、中でも改易は一番重く、主君を失った家臣が牢人化していきました。他にも、旗本奴や町奴と呼ばれるかぶき者が反社会分子として問題化していることも、文治政治転換へのきっかけとなりました。
ソ
正解は、定免(法)です。
定免法とは、豊作・凶作にかかわらず、年貢率を一定にして年貢を徴収する方法です。それまでは検見法(豊作・凶作によって年貢率を変えて年貢を徴収する方法)がとられていました。
タ
正解は、公事方御定書です。
徳川吉宗が裁判の基準として編纂させたもので、1742年に完成しました。法令からなる上巻と、判例からなる下巻(一般に御定書百箇条)をあわせて公事方御定書といいます。ちなみに裁判のことを「公事方」といい、行政のことを「勝手方」といいます。
チ
正解は、万世一系です。
大日本帝国憲法の第1条に書かれているものですね。日本国憲法との比較で出題されることもありますが、基本はしっかり押さえておきましょう。
大日本帝国憲法の内容をしっかり押さえておこう!
★大日本帝国憲法(明治憲法)…1889年2月11日発布・黒田清隆内閣
(1)天皇
神聖不可侵・統治権の総攬・統帥権の独立
※統帥権…軍隊を指揮する権限・陸軍参謀本部(参謀総長)と海軍軍令部(軍令部長)が補佐する
天皇大権…文武官任命・条約締結・宣戦や講和・緊急勅令・戒厳令・統帥権
(2)内閣 各国務大臣は単独で天皇を輔弼…議会ではなく天皇に責任を負う
(3)帝国議会 衆議院・貴族院の二院制(権限は平等)・天皇の協賛機関
※貴族院議員…皇族・華族・勅選・多額納税者議員
(4)臣民の権利 法律の範囲内で所有権の不可侵・言論・出版・集会・結社・信教の自由
ツ
正解は、皇室典範です。
1889年、大日本帝国憲法と同年に出された皇室関係法です。
テ
正解は、地方自治(法)です。
「都道府県知事・市町村長は公選」とありますので、公職選挙法かな?と思うところですが、公職選挙法は1950年、それまでの衆議院議員選挙法・参議院議員選挙法の各条文、地方自治法における選挙に関する条文を統合する形で制定されたものです。
地方自治法は、1947年5月3日の日本国憲法施行とともに施行され、都道府県や市町村は地方自治体として扱われることになりました。また、地方自治法の施行によって内務省が廃止されました。
ト
正解は、任命(制)です。
1948年に教育委員会法が発布され、都道府県と市町村に教育委員会が設置されました。この時点での教育委員は公選制でしたが、1956年に任命制に変更となりました。
おわりに
さて、今回は〔Ⅰ〕〔Ⅱ〕の全問解説を行いましたが、いかがだったでしょうか?
「えっ?これが京大の問題?」
というくらい、教科書レベルの基本的な問題から、
「さすが京大、本気出してるな」
という難問もあり、私自身も解いていて非常に楽しかったです。
次回は〔Ⅲ〕〔Ⅳ〕の全問解説を行いますが、いよいよ論述が出てきます。
論述問題に対する姿勢も語りたいと思いますので、次回もよろしくお願いします。
本日も、創心館のブログにおいでいただき、ありがとうございました。
文責:藤井 宏昌