皆さん、こんにちは。
創心館の藤井です。
今回は、2025年度・早稲田大学文化構想学部の日本史の問題解説を、特別速報版でお届けします。
今回は〔Ⅰ〕と〔Ⅱ〕の解説を行います。
この解説を通して、さまざまな教養を身につけていきましょう!
では、さっそく解説に入ります!
〔Ⅰ〕日本における鉱山の歴史




問1
正解は、オです。
アは、王仁は東漢氏の祖ではなく、西文氏の祖とされています。東漢氏の祖とされているのは阿知使主ですから誤りです。
イは、ヤマト政権は渡来人を部曲ではなく品部に組織したので誤りです。蘇我や大伴は品部ではありませんし、部曲は豪族の私有民でしたね。
ウは、橘氏は飛鳥時代末期からの一族ですので、時期的に誤りとなります。秦氏は弓月君を祖とする渡来人です。
エは、紙や墨の技法を伝えたのは観勒ではなく曇徴です。観勒は新羅から暦法を伝えましたね。
問2
正解は、武蔵です。
平城京に遷都する前の708年に武蔵国から銅が朝廷に献上されたことで「和銅」と改元され、唐の開元通宝にならって和同開珎が鋳造されました。しかし、一般に流通することは少なかったため、711年に蓄銭叙位令を発令して、貨幣の価値を認識させようとしたことも押さえておきましょう。
問3
正解は、ウです。
陶磁器は日宋貿易における輸出品でした。他にも金が輸出されていたことも押さえておきましょう。
問4
正解は、アです。
中尊寺金色堂を建立したのは藤原秀衡ではなく、藤原清衡でした。藤原秀衡が建立したのは無量光院でしたね。
ウの毛越寺を建立したのが藤原基衡であったこと、そして、これらの寺院はすべて岩手県の平泉にあったことも押さえておきましょう。
問5
正解は、ウです。
灰吹法の内容を知っている受験生は少ないと思いますが、金や銀を鉱石などからいったん鉛に溶け込ませ、そこから金や銀を抽出する方法です。解答に迷った受験生も多かったのではないでしょうか。
問6
正解は、イです。
石見銀山(石見大森銀山)は、大内氏と尼子氏の間で争っていましたが、大内氏が毛利氏によって衰退すると、毛利氏(毛利元就)と尼子氏(尼子晴久)の間で争うようになりました。
問7
正解は、エです。
アの佐野政言は、江戸時代のの旗本で、田沼意次の弟であった若年寄の田沼意知を殺害した人物です。時代が異なるので誤りですね。
イの保科正之は、江戸時代の会津藩の初代藩主で、4代将軍徳川家綱の補佐役となった人物です。これも時期が異なるので誤りです。
ウの神谷宗湛は、室町時代の博多の商人で、この曽祖父であった神谷寿禎が本格的に石見銀山を開発しました。時代が異なりますので、誤りとなります。
オの大岡忠相は、8代将軍徳川吉宗のもとで公事方御定書の編纂にあたった町奉行でした。
エの大久保長安はあまりなじみがないと思いますが、江戸幕府の財政で重要な佐渡奉行となった人物ですので、これを機会に覚えておきましょう。
問8
正解は、オです。
江戸幕府が日本人の海外渡航および帰国を全面禁止したのは1635年、スペイン船の来航を禁じたのは1624年ですので、「同じ年」というのが誤りです。
ここで、江戸時代の初期外交について整頓しておくことにしましょう。
江戸時代の初期外交について押さえよう!
★初期の外交(徳川家康)…貿易奨励・キリスト教禁止
(1)紅毛人…プロテスタントで、貿易と布教は別の立場
①オランダ…リーフデ号の豊後漂着(1600年)
→ヤン=ヨーステン(耶揚子)・ウィリアム=アダムズ(イギリス・三浦按針)登用
②イギリス…平戸へ来航し、商館を建設(1613年)
→オランダとの競争に敗れ、商館を閉鎖(1623年)
(2)南蛮人…カトリックで、貿易と布教を一体化する立場
①スペイン…メキシコに向かうドン=ロドリゴ(ルソン総督)に田中勝介が同行(1610年)
伊達政宗が支倉常長をメキシコ経由でヨーロッパに派遣(1613年・慶長遣欧使節)
②ポルトガル…マカオから生糸を持ち込んで巨利をあげる
→糸割符制度(1604年)…糸割符仲間が生糸を一括購入
※糸割符仲間は京都・長崎・堺・大坂・江戸の五か所商人をさす
→ポルトガル商人に大打撃/中国(1631年)・オランダ(1641年)にも適用された
(3)明…日明貿易復活ならず・出会貿易(私貿易)
(4)朱印船貿易(朱印状を交付)…日本人の海外渡航
①商人…角倉了以・茶屋四郎次郎(京都)・末吉孫左衛門(平野)・荒木宗太郎(長崎)
②幕府役人…末次平蔵(長崎代官)
③大名…島津氏・有馬氏・松浦氏・鍋島氏など
➃外国人…アダムズ・ヨーステン
輸出(銀)・輸入(生糸)
※日本町…ディラオ・サンミゲル(ルソン)、アユタヤ(シャム・山田長政)、アラカン(ビルマ)
フェフォ・ツーラン(コーチ)、プノンペン・ピニヤルー(カンボジア)
問9
正解は、ウの箱根用水です。
芦ノ湖の水を隧道(トンネル)で通し、現在でも静岡県御殿場市などの周辺の市町村に水を供給している、重要な用水です。
アの六郷用水は、かつて東京都にあった用水ですが、今は遊歩道などに整備されています。
イの野火止用水は、東京都から埼玉県につながる用水で、かつては玉川用水から飲料水や生活用水を確保するために引かれていました。
エの愛知用水は、愛知県の知多半島にのびる用水で、愛知県東部の人々にとっても重要な用水です。
オの見沼代用水は、1728年に徳川吉宗の新田開発政策の一環として整備され、利根川から現在の埼玉県のあたりにひかれていました。入試でも頻出の用水路です。
問10
正解は、アです。
長崎県の高島炭鉱は、住友ではなく、後藤象二郎のち三菱へ払い下げられた炭鉱です。
主な官営事業の払い下げについては、財閥成長への基盤となるので必ず覚えておきましょう。
主な官営事業の払い下げ先は必ず覚えておこう!
★軽工業は三井、重工業は三菱が中心!
①高島炭鉱(1874年・長崎県)→後藤象二郎のち三菱へ
②院内銀山(1884年・秋田県)→古河へ
③阿仁銅山(1885年・秋田県)→古河へ
➃三池炭鉱(1888年・福岡県・熊本県)→三井へ
⑤佐渡金山(1896年・新潟県)→三菱へ
⑥生野銀山(1896年・兵庫県)→三菱へ
⑦長崎造船所(1887年)→三菱へ
⑧兵庫造船所(1887年)→川崎へ
⑨深川セメント製造所(1884年・東京都)→浅野へ(浅野総一郎は「セメント王」と呼ばれた)
⑩新町紡績所(1887年・群馬県)→三井へ
⑪富岡製糸場(1893年・群馬県)→三井へ
問11
正解は、花岡(鉱山)です。
これはあまりなじみのない鉱山の名前ですが、1945年に986人の中国人労働者が、過酷な労働や虐待による死者の続出に耐えかね、一斉蜂起し、逃亡した花岡事件というのがあります。
〔Ⅱ〕日本における「改革」について




問1
正解は、アとウです。
アは、聖徳太子の子である山背大兄王を殺害したのは、蘇我馬子ではなく蘇我入鹿ですので誤りです。この時点で蘇我馬子は亡くなっています。
ウは、「皇極天皇が死去すると」の部分が誤りです。イの乙巳の変後、皇極天皇は軽皇子に皇位を譲り、軽皇子は孝徳天皇として即位しました。死去する前に譲位していることはかなり細かい内容ですので、迷った受験生も多かったのではないでしょうか。
ではここで、大化の改新の内容を時系列で整頓しておきましょう。
大化の改新は時系列で押さえることが大事ですよ!
(1)7世紀前半の内外情勢
1)唐の成立(618年)…律令による中央集権国家体制・高句麗遠征の開始
2)蘇我蝦夷・入鹿の強盛
①舒明天皇…最初の遣唐使派遣(630年・犬上御田鍬)
留学生らの日本への帰国(旻・高向玄理・南淵請安)
②皇極天皇…山背大兄王(聖徳太子の子)滅亡(643年・蘇我入鹿)
→乙巳の変(645年)…中大兄皇子・中臣鎌足ら蘇我蝦夷・入鹿を滅ぼす
(2)孝徳天皇(軽皇子・645~654年)…難波宮(大阪)に遷都
1)新政権
皇太子(中大兄皇子)・左大臣(阿倍内麻呂)・右大臣(蘇我倉山田石川麻呂)
内臣(中臣鎌足)・国博士(高向玄理・旻)
2)改新の詔(646年)
公地公民制の採用・豪族には食封(封戸からの収入)や布帛を支給
地方行政区画を定め、中央集権的政治体制をつくる
戸籍や計帳の作成・班田収授法の実施
新しい統一的税制を施行(采女・仕丁の徴発など)
→全国的な土地や人民の調査・冠位制の整備・大化の年号・評の設置
※郡評論争…藤原京から出土した木簡から、大宝律令以前は「評」であったことが判明
3)中大兄皇子の権力強化
古人大兄皇子(前の皇太子)を殺害(645年)
蘇我倉山田石川麻呂滅亡(649年)
飛鳥に移る(653年)
孝徳天皇が死去(654年)
有間皇子(孝徳天皇の子)を殺害(658年)
問2
正解は、アの勘解由使です。
設問文に「新任の国司から前任の国司に与えられる文書の審査」とあります。この文書を「解由状」といい、それを「勘」(=審査する)という役職と理解しておきましょう。
イの蔵人は、嵯峨天皇のころに設置された蔵人所(天皇の秘書官的事務を扱う役所)の役人をさします。蔵人のトップが蔵人頭で、藤原冬嗣や巨勢野足が任命されました。
ウの検非違使は、嵯峨天皇のころに設置され、京内の警察や裁判を行う役所でした。律令制の弾正台・五衛府・刑部省・京職の任務を吸収したものでした。
令外官については、以下のものを押さえておけば十分です。必ず覚えておきましょう。
令外官は次を押さえておけばOK!
★令外官…律令に規定されていない新しい役職のこと
○桓武天皇…勘解由使・征夷大将軍
○嵯峨天皇…検非違使・蔵人頭
エの在庁官人は、国司不在の政庁(留守所)で実務を行った役人のことです。地方豪族・大名田堵・開発領主らを登用し、国衙で勤務させました。
オの遙任国司は、任国に赴任せずに収入のみを得る国司のことです。目代を代理として現地に派遣し、実務は在庁官人に任せるというものでした。
平安時代の地方支配がどのように変化したかは、「国司」がキーワードです。
用語の意味をしっかり区別して説明できるようにしておきましょう。
平安時代の地方支配の変化は「国司」に注目せよ!
①国司の権限強化(郡司の権限を縮小)
定額の税の納入を請け負う代わりに、国内統治を国司に委任する
→国司が徴税請負人化し、公領は国衙領となる
②国司職の利権化
→売官売位…成功(私財を寄進して官職を授与される)・重任(成功の繰り返し)
1)遙任…任国に赴任せずに収入のみを得る国司
留守所(国司不在の政庁)で目代が政務を代行・在庁官人が実務にあたる
2)受領…任国に赴任する国司の最上席者(守といわれる)・強欲や暴政
藤原陳忠(信濃)…『今昔物語集』の「受領は倒るるところに土をつかめ」
藤原元命(尾張)…「尾張国郡司百姓等解」(988年)で翌年解任
問3
正解は、後三条(天皇)です。
空欄の後に「延久の荘園整理令」とありますので、これは落とせない問題ですね。
問4
正解は、評定衆です。
これはなかなか難しいですね。院政時代、上皇や法皇が主宰した会議(院評定)に参加する資格のある公家を、院評定衆といいます。
問5
正解は、ウです。
アは、法然が流されたのは越後ではなく讃岐でした。同じように親鸞が越後へ流されていますが、これを承元の法難(1207年)といいます。
イは、『選択本願念仏集』の著者は親鸞ではなく法然です。
エは、建長寺を建立したのは栄西ではなく、蘭溪道隆です。蘭溪道隆は5代執権の北条時頼の招きで来日しました。ここはしっかり区別しておきましょう。
建長寺(鎌倉五山第1位)…北条時頼(5代執権)の招きで蘭溪道隆が開山
円覚寺(鎌倉五山第2位)…北条時宗(8代執権)の招きで無学祖元が開山
オは、道元が重視したのは「只管打坐」(ひたすら坐禅に打ち込むこと)で、「公案問答」(坐禅の際に師から与えられる問題のこと)を重視したのは栄西でした。これも基本的なことですが、区別して押さえておきましょう。
栄西…臨済宗を開く・公案問答を重視・建仁寺(京都)を拠点とし『興禅護国論』を著す
道元…曹洞宗を開く・只管打坐を重視・永平寺(福井)を拠点とし『正法眼蔵』を著す
問6
正解は、エです。
①大和猿楽四座の本所は、東大寺ではなく興福寺です。観世座・金春座・金剛座・宝生座の4つを大和猿楽四座といい、座役(興福寺に納める)によって猿楽能の開催を独占しました。
➃足利義政の保護を受けたのは、池坊専応ではなく、池坊専慶でした。立花については池坊専慶→池坊専応→池坊専好と受け継がれていきました。
ここで、②の侘茶、③の連歌について以下にまとめておきましょう。
室町文化で必出の侘茶と連歌を押さえよう!
(1)侘茶
村田珠光(一休宗純に禅の精神を学ぶ)→武野紹鷗→千利休
(2)連歌
二条良基…『菟玖波集』(連歌の理論書)・『応安新式』(連歌の規則書)
宗祇(正風連歌の確立)…『新撰菟玖波集』・「水無瀬三吟百韻」(水無瀬宮に後鳥羽上皇を祀る)
山崎宗鑑(俳諧連歌の確立)…『犬筑波集』
※連歌師による地方普及
問7
正解は、ウです。
アは、「伏見宮家」ではなく閑院宮家です。従来は伏見・有栖川・京極の3家のみでしたが、新井白石は1710年に閑院宮家を創設しました。
イは、朝鮮通信使への待遇を「丁重化」したのではなく、「簡素化」が正しいですね。
エは、海舶互市新例によって貿易額は「増加した」のではなく、貿易額を「制限した」というのが正しいです。
オは、『経済録』を著したのは新井白石ではなく、太宰春台でしたね。太宰春台は商業藩営論を提唱した学者でした。
問8
正解は、エの萩(長州)藩です。
これは天保の藩政改革の定番問題ですので、落とせないですね。
アの福井(越前)藩では、藩主の松平慶永らによる改革が行われました。
イの佐賀(肥前)藩では、藩主の鍋島直正によって、陶磁器の専売や反射炉の築造などが行われました。
ウの高知(土佐)藩では、藩主の山内豊信らによる改革が行われました。
オの鹿児島(薩摩)藩では、藩主の島津重豪が調所広郷を登用し、黒砂糖の専売や琉球貿易の拡大などが行われました。
問9
正解は、村方騒動です。
空欄の前に「村役人でもある有力百姓(豪農)と小百姓との対立」「村役人の不正を追及し」とあります。江戸時代の中期ごろから見られるようになった江戸時代の闘争形態の一つですね。
ではここで、江戸時代の百姓一揆の形態について、時系列でまとめておきましょう。
江戸時代の百姓一揆の形態を時系列で押さえよう!
★百姓一揆…江戸時代を通して3000件以上(享保の大飢饉の頃より増加)
三大ピークは天明の大飢饉・天保の大飢饉・幕末
(1)初期(17世紀)
代表越訴型一揆…義民の領主への直訴
※義民の代表例…佐倉惣五郎(下総)・磔茂左衛門(上野)
(2)中期(18世紀)
惣百姓一揆…広域の百姓蜂起・全藩一揆も発生
○傘連判状(首謀者を隠す)
○全藩一揆の代表例…嘉助騒動(信濃)・元文一揆(陸奥)・郡上宝暦騒動(美濃)
※村方騒動(役人の交代要求など)や都市では打ちこわしが頻発
(3)後期(19世紀)
世直し一揆…貧農・小作人(頻発・孤立化)・尊王思想の広がり
※国訴…畿内の在郷商人が農民を指導・木綿や菜種などの専売制反対を要求
問10
正解は、ウです。
Yは、「市町村ごとに農業協同組合が農地の買収と売渡しをおこなった」の部分が誤りです。第2次農地改革では、自作農創設特別措置法にのっとって、政府が地主の土地を買収し、小作人にほぼ無償で売り渡しました。
おわりに
さて、今回は2025年度・早稲田大学文化構想学部の日本史〔Ⅰ〕・〔Ⅱ〕の解説をお届けしましたが、いかがだったでしょうか。
教科書での扱いがなかったり、あるいは教科書の扱いが小さいものを、ところどころ出してきていますね。
でも、これが答えられたからといって大きな差はまずつきませんし、合否にはまったく影響しませんので安心して下さいね。
大事なのは、それを教養にしていくことです。
入試に出るから覚える、出ないから覚えないというのは、もったいないですからね。
次回は〔Ⅲ〕・〔Ⅳ〕の解説を行いますので、お楽しみに!
本日も創心館のブログにおいでいただき、ありがとうございました。
文責:藤井 宏昌